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「鷹生くん。今、手は空いてる?」
やや抑揚に欠ける青年の声に、鷹生はカウンターをふり返った。
カウンターの中には誰もいないが、その奥の壁には胸ぐらいの高さのところに長方形の穴が空いている。
幅八十センチ、高さ四十センチぐらいの穴の向こうは調理室だ。調理室で作られた料理はこの穴を通って店の中に運ばれていて、大正時代にも実際に料理の出し入れをするのに使われていたそうである。
穴の奥行きは三十センチほどと、皿を置くのにはちょうどいいスペースだ。
最初は単純に便利だとしか思っていなかった鷹生だが、
『ひょっとして、ここの壁の厚さって三十センチぐらいあるんですか?』
ふと疑問に思って聞いてみると、『そうよ』とキッチン担当の朱美はあっさりとうなずいた。しかもここだけでなく、建物すべての壁がそのぐらいの厚みがあるそうで、どの窓も中から見ると出窓のような造りになっているのはそのためらしい。
「ちょっと外に行ってきてほしいんだ。姉さんに頼み忘れた物があって」
と、穴の向こうから顔を覗かせているのは、メガネをかけた青年。
いつもは店のカウンターの中でお茶を入れたり、レジをやったりしているが、たまに調理室に呼ばれて仕込みの手伝いをしている。
雑用係の鷹生としては、外に行くことは構わないのだが、
「いいんですか? こっちに誰もいなくなりますよ」
チラリと店の一番奥に視線を向ける。
店の中は静かだが、窓際の席には客が一人いる。いつもなら小柄なウェイトレスが接客してくれるが、あいにくと今は外に出ていてる。
「今いるのって千歳(ちとせ)だけでしょ」
と言いながら、長い髪をきれいに編み上げた女性が穴の向こうから顔を出す。
キッチン担当の柏葉朱美だ。
「千歳なら放っておいても平気よ。茶がなくなったら自分で入れられるし」
「…………そりゃそうですけど」
今いる着物姿の男性客は、常連の一人だ。
しかも、朱美の高校時代の同級生で、“仙石”という名字ではなく下の名前を呼び捨てにするほどの仲なのだが、はっきり言ってその扱いはぞんざいだ。時々店番を頼まれているようで、物を置いてある場所は鷹生よりも詳しいことがある。
「それに今は原稿のネタを考えているみたいだから、当分はあのままよ」
「確か作家さんでしたっけ?」
前に聞いた男の職業を、鷹生は思い出す。
一度だけ原稿用紙にすごい勢いで文字を書き込んでいる姿を見たことはあったが、基本的にこの常連客はぼんやりとしていることが多い。今日も頬杖をついたまま、一時間以上窓の外を眺めている。手元のカップは空になっているが、それに気づいた様子もない。
「でも、他の客が来たらどうするんですか?」
いくら静かな店内とはいえ、隣の調理室で作業していたら気づかないこともある。しかも今日は暖かいので出入り口のドアは開けっ放しだ。扉に付けられたベルも鳴りようがない。
「ピアノの曲が変わるから、すぐにわかるよ」
「そうなんですか?」
青年の言葉に、鷹生は驚いて入口の近くにあるピアノに目を向けた。自動演奏機能が付いていることにも驚かされたが、まさかセンサーと連動して曲まで変わるとは思ってもみなかった。
しかし、そういうことなら鷹生がここで店番を続ける必要はない。
穴から差し出されたザルを受け取りながら、鷹生は朱美に聞いた。
「で、どこで何を採ってくるんですか?」
「シソの葉を十枚と、万能ネギを一束。南側の畑にあるから、よろしく」
「了解」
元気よく返事をし、鷹生はカウンターに背を向けた。
“外に行く”と言っても買い物ではない。広い敷地の中にある畑から収穫してくることをこの店では“外に行く”と言っているのである。すでに外出しているウェイトレスの行き先も、庭にある菜園だ。
その菜園には建物の中を通って行くように言われているが、
(それだと遠回りなんだよなぁ……)
ふり返ると、すでに朱美たちは顔を引っ込めている。調理室で仕込みをしているので窓の外を見ることもないだろう。
鷹生は開けっ放しになっている店の出入り口から外に出た。
テラスを通って短い階段を降りると、そこには広い庭が広がっている。
庭の左側にはバラ園、右側には大きな池、そして正面の道をまっすぐ行けば敷地の外に出る門がある。
鷹生は、道の右側にある柵の前で一度立ち止まった。辺りを軽く見回して人がいないことを確認すると低い柵をまたいで越え、学校のプールよりも大きな池の淵を歩いていく。ここを通るのが菜園への近道なのだ。
では、どうして建物の中を通るように言われているのかというと、やはり危ないからだろう。水が濁っていてわかりにくいが、この池は結構深いらしい。
(すぐそばを歩かなきゃ、転んでも落ちないさ)
と思いながら通り抜けようとしたが、池のほとりにそびえる桜の木の前で、鷹生はふと足を止めた。
洋館の高さとほとんど変わらないほど大きなこの桜の木が、この洋館――『双樹館』の名前の由来だそうだ。
周りを見ても、ここまで大きな木はこの桜しかない。
なのに何故『双樹』なのかというと、理由は池の水にある。
中の様子がまったくわからないほど濁った水は、周囲の景色を鏡のようにはっきりと映し出している。当然すぐ側にある桜の木も水面にきれいに映っていて、まるで二本があるように見えるのである。
だから洋館の呼び名が『双樹館』。
そして、その洋館の中にある喫茶店だから『喫茶 双樹館』。
「なんか、安易なネーミングですね」
働き始めた頃、店の名前の由来を聞いた鷹生が口にした言葉だ。
それは他のみんなも思っていたことらしく、誰も反論はしなかった。小柄なウェイトレスも苦笑いを浮かべ、
「いろいろ悩んだんだけど、この名前が一番しっくりするのよね。それに、あたしたち二人も“樹”だから」
「き?」
「ええ、そうよ」
首をかしげる鷹生に、ウェイトレスの“キサラギ トウコ”は手に持っていた注文票にボールペンを走らせた。そして鷹生の前に差し出す。
如月 桃子
如月 柊
そこに書かれている文字が何を意味するのか、鷹生にはわからなかった。さすがに「キサラギ」は読めたが、
(モモコとヒイラギ?)
二つの名前らしき字をじっと眺めていると、ウェイトレスは笑って、
「これ、あたしたちの名前よ」
自分と双子の弟である“キサラギ シュウ”を指さした。
「へぇ。こういう字なんですか」
自己紹介はとっくに終わっていたが、漢字でどう書くのかを知ったのはこの時が初めてだった。
“桃”と“柊”。
確かに「二本の木」である。
キッチン担当の朱美の名字も“柏葉”と木を表す漢字が使われているので「三本の木」の方がいいようにも思えたが、
「私は、二人を手伝っているだけだからね」
驚いたことに、この店を経営しているのは最年長の朱美ではなく、鷹生と十歳も違わない桃子と柊なのだった。
双子の姉弟が経営する『喫茶 双樹館』。
そのシンボルツリーと言える大きな桜は、今は青々とした葉をしげらせている。
ひと月ほど前までは薄いピンク色の花が咲き誇り、花にあまり興味のない鷹生でも思わず足を止めて見とれるほどきれいだった。葉が出てからは周囲の緑に埋もれ、気に留めることも少なくなったが、こうして木の真下から見上げると圧倒されるものがある。
(こんな大きな木って、なかなかないもんなぁ)
さわやかな風に、葉がさわさわと揺れるのを鷹生がぼんやりと眺めていると、
「あら? どうしたの?」
ちょうど鷹生が行こうとしていた方向から、小柄な人物が歩いてきた。
普通に考えればそれは桃子であり、声も間違いなく彼女のものだったのだが、
(…………誰だ?)
その姿に、鷹生は一瞬たじろいだ。
店の中での桃子はいつも着物に袴に白いエプロンだ。色のバリエーションはいくつかあるが、和風のウェイトレス姿は変わらない。
しかし、桃子が店の外でもそんな格好をしているとは鷹生も思ってはいない。畑に行くのだって汚れるから着替えていても何らおかしくはないのだが……。
「何ですか、その格好?」
半袖のTシャツにジーンズにスニーカー。
そこまでは普通の格好だ。
やけにつばの広い帽子をかぶっているのも「普通」の範囲内だろう。畑仕事をするのだから軍手をしていても構わない。けれど、
「畑仕事する時の服だけど、変かしら?」
「変ですよ」
数メートル離れたところで立ち止まった桃子らしき人物に、鷹生は正直に答えた。
それに対する反応は、よくわからない。
何しろ目の前にいる人物の頭は、まるでカーテンを付けたように、帽子から垂れ下がった薄い布によって覆われているのである。レースっぽい布なので周りの様子はある程度見えるのだろうが、外からでは表情を窺うことは難しく、遠くからでは誰かを判別することすら難しい。
そして、布で覆われているのは顔だけではなかった。
二の腕の中程から手首まで――ちょうどTシャツの袖口から軍手の間までも、黒い長靴下に両腕を突っ込んだような感じになっている。
素肌をまったくさらそうとしない格好に鷹生は驚いたが、桃子がさしている白い傘を見てその理由に思い当たった。
(紫外線対策ってやつか)
休みの日の午前中や昼ぐらいにテレビを見ていると、こういったグッズのCMが時々流れている。鷹生の母親や大学生の姉も、夏になると暑いと言いながら長袖のシャツを着て出かけているのだ。同じ女性である桃子も気になるのだろう。
(だからって、こんな格好をしなくてもなぁ……)
普段のウェイトレス姿が似合っているだけに、少しがっかりする。
一方、桃子の声からはそんなことを気にしている雰囲気はない。普段と変わらぬ様子で小首をかしげる。
「でも、この時期はこの格好じゃないとダメなのよ。特にここら辺は降りやすいし」
「降る?」
桃子の言葉に、鷹生は空を見上げた。
桜の木のすぐ下にいるので視界の大半は木の葉でさえぎられているが、その向こうには雲一つない青空が広がっている。登校する前にテレビで確認した今日の降水確率は、夜までゼロパーセントだったはずだ。
「本当に降るんですか?」
「そうよ。今日みたいに風が強い日は気をつけないと危ないのよ」
「危ない?」
確かに去年はいきなり豪雨になることも多かったが、それでも数分で青空から雨に変わりはしないだろう。畑仕事に気を取られていたとしても、館まで走って戻ればずぶ濡れにはならないような気がする。それに……
(雨が降るのに紫外線対策って必要なのか?)
ひょっとして、桃子が「降る」と言っているのは「雨」のことではなく「紫外線」のことなのだろうか。
それと気になっていることはもう一つある。
先程から、桃子は少し離れた場所から鷹生と話している。鷹生が木陰にいるのに対し、桃子がいるのは日なた。桜の木が作り出す日陰に入ってこようとしない。紫外線が気になるのなら、木の下に来ればいいのではないか?
そう鷹生が不思議に思った時だった。
突然、強い風が吹いた。
飛んでくる木の葉に、鷹生はとっさに腕で顔をかばいながら目を閉じる。
頭上の枝葉がザワザワと大きく揺れる。
吹き付ける風に息苦しさを感じたが、それはわずかな時間だった。
風はすぐにおさまり、周囲に静けさが戻る。鷹生は恐る恐る目を開けようとした。
――ポタッ ポタポタッ
鷹生の手や腕に、何かが当たった。
小さくて軽いものが、上から落ちてきたようだ。
(何だ?)
何気なく腕に目をやり、鷹生は顔を引きつらせた。
大きさは、三センチほどだろう。細長い体に短い針のような毛を生やした物体がそこにいた。何かの見間違いかと思いたかったが、白いシャツの上でそいつは生き物であることを主張するかのように黒い身をくねらす。
(ま、まさか……)
嫌な予感が鷹生の頭をよぎった瞬間。
頭上の桜の木から、小雨のようにパラパラと何かが降ってきた。
ゆっくりと足元に目を向けると、緑色の芝生の上に、たくさんの小さな黒い物体。
鷹生は思わず一歩後退り――石でも草でもない何かやわらかいものを踏みつけたような感触を、靴裏に感じたような気がした。
後で考えてみれば、それは錯覚だったのかもしれないが、
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!」
言葉にならない声を上げながら、鷹生は全力でその場から逃げ出していた。
桃子のあの格好が“毛虫対策”だということに鷹生が気がついたのは、館にたどり着いて一息ついた後、赤く腫れあがった自分の手を目にした時だった。
2009.5.4 掲載
使ったお題「10:桜の木の下で」
【あとがき】
「桜」と言えば、たいていの人は「薄いピンク色の花」を思い浮かべるはずです。そこをあえて「花を出さない話にしよう」とひねくれて作ったのがこの話です。
では、花以外で何を思い浮かべるのかというと、私の場合は「毛虫」でした。
私が通っていた保育園にも桜の木があって、毛虫が発生する時期になると立ち入り禁止の白線が引かれていましたし、小学生の時に友達といつもと違う帰り道を歩いていたら、地面にたくさんの毛虫が転がっている道にうっかり足を踏み入れて慌てて引き返したこともありました。
最近では、市内に新しくできる道路の並木を桜にしたらどうかという意見に対し、毛虫が発生するので近所の人が大変だという回答が市の公報に載っていたりと、桜と毛虫の関係はとても深いような気がします。
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