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夜。ふと目を覚まし、窓の外を見上げると、円い月が出ている。
俺は起き上がると、大きく体を伸ばす。
背をそらし、特に右側の脚を。
円い月が、つめたく見ている。今夜もいい月だ。
窓の隙間から、そっと外に出る。月が白い光を浴びせてくる。
このベランダまでが俺の外出範囲だと、家人は信じているようだ。
俺はひょいと壁の上に飛び乗ると、そのまま歩き出す。壁伝いに隣の家のベランダへ。そこから大きく枝を張った木に飛び移るのは、ちょっとしたスリルがある。
もちろん、今の俺にとっては、さほど難しい仕事ではないがな。
木を伝い降り、塀の上へと到達する。まず、地面までは降りない。
塀の上を一渡り、決まったコースを一周。見知らぬ顔に遭遇した場合、一仕事しなきゃならないが、まあ大抵の場合問題なくこのチェックは終了する。
その後は、自由時間だ。陽が昇るまでには、元の寝床へ戻ることにしている。
公園に差し掛かったとき、人の声が聞こえてきた。
高く、低く。
歌、というやつだろうか?
俺はそれに誘われるように、物好きにもそこに脚を踏み入れた。
正直、いつもは避けて通る公園だった。
俺の行動範囲の端の方だから土地勘はないし、茂みが多くて見通しが悪い。
ここをねぐらにしているやつも多いと聞いている。
いきなり知らないやつと出くわすのは勘弁願いたいところだった。
影に潜み、木々の陰からそっと覗く。
公園の遊具の真ん中、月の光を浴びて、立っている少女。胸に手を当て、旋律を奏でている。
ここからは、顔は陰になっていてよく見えなかった。
突然、その旋律が乱れ、そして止まる。
「誰?」
こちらを振り向く。
下手を打ったつもりはなかったが、どうやら見つかってしまったらしい。
俺は観念して、2、3歩彼女に近づいた。月の光が俺にも降りかかる。
彼女は息をのみ、目を丸くした。
「ドラ?」
同居人がつけた名で、俺を呼ぶ。俺の方もその声に覚えがあった。なんの物好きか、最近我が家にやってくるようになった少女だ。
目的はどうやら俺の同居人らしいが、正直全く理解できない。
「ドラじゃないの?」
少女は、ゆっくりとこちらに近づいて来ようとする。
俺はその声に答えて、適当に一声鳴いてやった。
「やっぱり…」
しゃがみこみ、俺の背をなでる。
いつもと違う、ゆったりしたグレーのワンピース。すぐに彼女と分からなかったのは、そのせいかもしれない。
「先生、夜は外に出してないって言ってたのになぁ……。どうしてこんなところにいるの?」
背をなで続けながら、彼女は俺の顔をのぞきこんだ。決して責めている口調ではない。ただ本当に、疑問を口に出したというふうだった。だが、俺にとっては大問題だ。
もし、彼女から俺の同居人にこのことが漏れたら、俺の夜の楽しみが奪われかねない。
どうしたものかと思っていると、彼女は俺の目を見つめて、にこっと笑った。
「わかった。先生には秘密ね」
俺から離れながら立ち上がると、彼女はくるりと回り、また俺を見た。顔の前に、指を一本立てる。
「その代わり、わたしのことも秘密ね。こんな夜中にうろうろしてる悪い子だって分かったら、嫌われちゃうかもしれないもん」
俺は了承の意味を込めて、一声鳴いた。
もちろん、彼女をそんなふうには、俺は全然思わなかったが。
それからしばらく、彼女はブランコに座り、かといってそれをこぐわけでもなく、ぶらぶらと足を揺らしていた。
何かを待っているように、時折顔を上げて辺りを見回す。俺も立ち去りがたく、そんな彼女の様子を見守っていた。
「あ」
突然、彼女が立ち上がる。俺も辺りを見回した。何も変化はないように見えた、がーー
視界の端に、動くものが映る。そちらを見つめていると、地面から何かが浮き上がってくるのが見えた。
それはぼんやり光っているようにも見えるが、回りに光を投げてはいない。目を凝らして、やっと見えるほどのかすかなもの。地面から離れると、小さな球体になり、ゆっくりと昇り始める。
あんまりじっと見ていたので、それからふと目を離して、俺は飛び上がるほど驚いた。
それと同じものが、周囲に無数に浮いていたからだ。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
思わず毛を逆立てた俺がおかしかったのか、彼女の声には笑みが混じる。俺は少々気恥ずかしくなり、早くなる鼓動をむりやり押さえつけた。
そうしている間にも、次々と地面から浮き上がった無数のなにかは、漂いながら天へと昇っていく。
最初こそ驚いたものの、それはなかなかに幻想的な風景ではあった。
「あれはね、忘れられたもの。封じ込まれたものたち」
俺に説明するように、あるいは独り言のように、彼女は語り始める。
「表に出されなかった、押し込められた、我慢された、隠された、そういう気持ち。みんなが、心の中に閉じこめたと思っているもの」
「……」
「そういう気持ちは、本当は消えずに、地面に流れて、溜まっていくの。そして、やがて今日みたいに全部天へ消えていく」
上を見上げる。彼女の言う『気持ち』たちは、ますますその数を増しているようだ。
「って言っても、わたしも理屈は全然分かってないんだけどね。ただそういうものだって、見えるから知っているだけ」
上へ向けていた視線を、下へと落とす。
「……でも、わたし以外のみんなには、見えてすらいないの。なんでだろうね?」
俺は何も言えなかった。おそらく、彼女も答えを求めているわけではないのだろう。ただその声音の悲しさだけが、俺の耳に残る。
しばらく口をつぐんだ後、その余韻をふっきるように、彼女は明るい声を出した。
「でも、今日はわたしひとりじゃないもんね。君が来てくれて嬉しかったよ」
周囲の風景は、落ち着きを取り戻しつつあるようだ。それらが去るにつれ、暗闇のベールが俺たちを包んでいく。
ひとつひとつの光は弱いが、あれだけ集まると周囲がだいぶ明るくなっていたことに気づかされた。
俺は彼女に背を向けると歩き出す。
「おやすみ。またね」
彼女のことを思う。
彼女がこんな夜中にわざわざあの出来事を見に来るのは、なぜなのだろう?
興味か。見えることの確認か。
だが、あれらのことを語る彼女の口調からは、何か暖かいものが感じられた。
彼女は、見守っているのかもしれない。
誰もが忘れてしまったあの「気持ち」たちが、救われるのを。消えていく瞬間を。
それは彼女にしかできない、弔いなのだろうと俺は思った。
俺は住処に向かって歩きだした。
月は追って来るだろう。
そう考えると、ちょっといい気分だった。
≪ 第1話 双樹館(下) 〈作:三和すい〉 | | HOME | | 拍手のお返事です ≫ |