「こーんにーちはーっ」
玄関チャイムのピンポンのポンの音も鳴らぬ間に、押した本人は玄関に上がり込んでいる。
「や、いっちゃん、学校は?」
「あ、陸奥さん」
台所からひょいと顔をのぞかせた陸奥の前で、いつきは足を止め、ぴょこっと頭を下げた。
「仙石先生ならまだ仕事中だよ」
そう告げると、あからさまに残念そうな表情に変わる。
「〆切、近いんですか?」
「うん。明後日」
『先生』は物書きを生業としている。基本、作業は夜から深夜にかけて行われ、日中まで机に向かっているのは〆切がだいぶ迫った時だけだ。
それでも『明後日』なら、今回はまだエンジンがかかるのが早い方かもしれない。
「そんなわけだから、俺は夕食の買い出しに行ってくる。まだしばらくいるようなら留守番よろしく」
陸奥は買い物袋をぶら下げて、台所から出ていく。
スーツ姿の長身に、微妙な花がらの買い物袋。
その後ろ姿を見送るのは何度目かになるが、何度見ても笑いがもれそうになる。
(そもそも、出版社の編集って、そういう仕事だったっけ?)
「……僕のお目付役はいなくなったかい?」
陸奥がいなくなって間もなく、居間の扉をそっと開け、男が顔をのぞかせた。眼鏡の奥で視線を左右に走らせる。
「先生!」
いつきは振り向くと、満面の笑顔で仙石を出迎えた。
仙石は陸奥がいないのを確認すると、ひょろっとした着流し姿で居間に入ってくる。
「まったくあいつと来たら、食事のために外出する暇さえ僕から奪っていくんだからね」
おいしい食事を作ってもらっておいてその言い分はないのではないかといつきは思ったが、黙っていた。
「あっ、お茶淹れるねっ」
台所に小走りに駆け寄りながら、いつきは今見た仙石の姿を思い返す。口端がゆるんでしょうがなくなった。
「お茶と言えばね」
いつきの淹れてくれた緑茶を一口すすると、仙石は口を開いた。
「近くに、ちょっと変わった喫茶店があるらしいんだよ」
いつきは首をかしげた。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
仙石は、近所のあれやこれやに、決して詳しい方ではない。むしろ、自分の用がある店以外は認知していないと言っていい。
「高校時代の同級生に、この前偶然会ってね。その店で働いてるんだって」
「働くって……ウェイトレスとか?」
「いや……作ったりする方らしいけど」
いつきが知りたかったのはそういうことではなかったが、それ以上その同級生について詳しく聞くのも変かと思い、黙っていた。
「詳しい場所は後で知らせてくれるって。いつさんも一緒に行ってみる?」
いつきは目をぱちぱちさせた。その後、こくこくと大きくうなずく。
「そのお店、名前はなんて言うの?」
「……なんだっけ? えーと、双子の姉弟がやってて、木がどうのこうの……ああ、そうだ」
「『喫茶 双樹館』という名だそうだよ」
(2009.04.10制作)
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