[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
古い洋館の中にある喫茶店。
「双樹館」という名前の店のスペースはL字型をしている。そういう形に造られたのではなく、長方形の部屋を二つつなげて使っているためだ。
大きさは、それぞれ二十畳と三十畳。一人で開店準備をするには広すぎる。
(まあ、三人いれば十分だけどね)
テーブルクロスやメニューの位置を直しながら、柏葉朱美は壁にかけられた時計に目を向けた。古そうな時計の針は十二時二十五分を指している。
あと五分もすれば、午後の営業開始時間。
ピアノの曲が流れる店内を、朱美は見渡した。
きちんと並んだテーブルとイス。汚れのない白いテーブルクロス。
どのテーブルにもメニューと砂糖壺は置いてあるし、赤い絨毯の上にもゴミは落ちていない。
(よし。何とか間に合ったわね)
久しぶりにフロアでの開店準備を終え、朱美はホッと胸をなで下ろした。
朱美の担当はキッチンである。いつもなら調理場で料理の下ごしらえをしているところだが、今日はウェイトレスの如月桃子が昼に出かけたまま戻ってきていないので、朱美が代わりに店で準備をしている。
朝に比べるとやることは少ないが、短い時間で終わらせなければいけないので、慣れない朱美にとっては苦手な作業だ。今日が日曜日で、学校が休みの小柴鷹生が昼から来ていなければ、おそらく間に合わなかっただろう。
「柊、そっちはどう?」
「大丈夫ですよ」
カウンターの中で、メガネをかけた青年が短く答える。
白いシャツに、黒いベストとズボン。そして首元に赤い蝶ネクタイをつけた如月柊の担当はお茶とレジだ。客が来てから準備をしても十分間に合うし、店が始まってすぐに客がやって来ることなど滅多にない。
そう思った時、カランカラン、と入口のドアベルが鳴った。
ドタバタと大きい足音とともに、
「朱美さーん。準備中の札、外してきましたよ」
聞こえてきたアルバイトの鷹生の声に、朱美はわずかに顔をしかめた。
L字型の部屋の奥にいるので、外から入ってきた鷹生の姿は見えないが、
「こら! 店の中を走るんじゃないよ」
朱美はやや声を張り上げた。
いくら毎日掃除をしているといっても走ればホコリはたつものだし、テーブルの上には小さな花瓶や砂糖壺など置いてある。鷹生の運動神経は悪くない方だが、転んだ拍子にテーブルクロスをつかみ水と砂糖を絨毯にぶちまけた人物が過去にいたので油断は禁物である。
「はーい」
という返事とともに、アルバイトの鷹生が姿を現した。
カウンターの中にいる柊と同じく、ウェイター姿の少年はさっと店の中を見回し、
「こっちは終わったみたいですね。後は何やりますか?」
「じゃあ、ピアノを拭いておいて。午前中、そっちの窓を開けてたのよ」
黒いグランドピアノはホコリが付くと目立つし、置いてあるのは店の入口のすぐ横。店を訪れた客が一番先に目にするのが“ホコリをかぶったピアノ”というのは、スタッフとしては避けたいところである。
「ところで、朱美さんて機械苦手なんですか?」
乾拭き用のぞうきんを取り出しながら、鷹生が聞いてくる。
「そうでもないけど、どうして?」
「だって、全然ピアノに触ろうとしないじゃないですか」
(……よく見ているわねぇ)
少しだけ感心しながら、朱美はちらりとピアノに目を向けた。
「機械というより、そのピアノが苦手なのよ」
誰も触れていないにもかかわらず、なめらかに動く鍵盤。そこから流れ出る曲は、プロの演奏に近い上手さである。
古い洋館の中にある喫茶店。どこか時が止まったような店の空気に、そっと花を添えるように曲を奏で続けるピアノは、常連客の間でもなかなか好評である。天気や季節、その時の雰囲気に合わせて曲を変えてくれるので、一日中店にいる朱美たちも聞いていて飽きることはない。
双樹館には、なくてはならない存在のピアノ。
しかし、朱美とってはあまり近寄りたくない存在だった。なので、拭き掃除は桃子や鷹生に任せっきりだ。朱美はキッチン担当なのでピアノに近づかなくても不自然ではないが、スタッフがアルバイトの鷹生を入れても四人しかいない店である。三ヶ月も働いていれば目に付くのだろう。
「ひょっとして、勝手に演奏してるから苦手なんですか?」
鷹生は冗談のつもりで言ったのだろう。しかし、
「そうよ」
「…………えっ?」
朱美がうなずくと、鷹生はピアノを拭いていた手を止めた。ふり返り、朱美の顔をまじまじと見つめる。
「本当ですか? そりゃあ、俺も最初見た時は驚きましたけど、自動演奏機能が付いているんだから勝手に動くのは当たり前なんじゃ……」
「悪い?」
ジロリと睨むと、鷹生は慌てて拭き掃除を再開した。
その様子に、カウンターにもたれかかった朱美は小さくため息をつく。
今のは完全に八つ当たりだ。
アレに慣れないのは自分のせいだし、そもそも鷹生には本当のことは何も話していない。どう誤解しようが彼の責任ではない。
「やっぱり、まだダメなんですか」
カウンターの中から柊が小声で話しかけてくる。朱美も鷹生に聞こえないよう声を落とす。
「当たり前でしょ。慣れろって言う方が無理よ」
「そうですか? 僕はもう気になりませんけど」
「あんたたちと一緒にしないでよ。あんたたちと違って、私はアレが初めてだったんだから」
とは言っても、
(もう二年、か……)
あのピアノが来たのは、三人でこの店を始める少し前のこと。あれから、もう二年もの時間がたっている。
(それとも、まだ、なのかしら)
店の営業には慣れたが、あのピアノに対する苦手意識は変わらない。
理解が追いつかないのか、理解することを頭が拒んでいるのか。
掃除する鷹生の後ろ姿を眺めながら、朱美はこの店にピアノが来た日のことを思い出していた。
◆ ◆ ◆
その日、朱美は柊と一緒に買い物に出かけていた。
買い出しは、キッチン担当である朱美の仕事だ。食材を自分の目で確かめたいのもあるが、桃子に行かせると余計な物を買ってくるし、柊は人混みが苦手だと言ってバスや電車に乗らない上にスーパーにさえ入りたがらないのである。
そこそこ安い店が近所にあるので、時々こうして連れてきては慣れさせようと試みているが、今日も店の中に一歩も入ることなく買い物は終了。一人で買い物に行かせるまでの道のりは、まだまだ遠いようだ。
(まあ、荷物持ちにはいいんだけどね)
そっとため息をつきながら、朱美は隣を歩く柊にちらりと視線を向ける。
あまり表情が変わらないので何を考えているのかよくわからないが、こっちが頼む前に荷物を持ってくれるところはありがたい。
(あとは、もう少し話してくれればね……)
双子の姉である桃子と違い、弟の柊は無口だ。話しかけても短い返事しか返ってこないし、自分から口を開くことも滅多にない。人見知りする性格なのだろうが、これでは先が思いやられる。
(無理もないか。まだ一ヶ月もたってないし)
この双子と初めて顔を合わせたのは先月のこと。
喫茶店「双樹館」の経営者として紹介された時だ。
どうして初対面の相手と一緒に喫茶店をやることになったのかというと、父親から頼まれたからだ。
『今度、奥様の知り合いの子たちが喫茶店を始めるんだ。お前、手伝ってくれないか?』
「奥様」というのは、父親が執事として仕えている葛城家の女当主のことだ。
名前は、葛城日向子。歳は確か八十くらいだったはずだ。
ずっと入院していて、子供たちは全員家を出ている。彼女の夫も亡くなっているので大きな屋敷には誰も住んでおらず、一階の一部を利用して喫茶店を開くことになったらしい。
どうして朱美に声がかかったのか、理由には心当たりがあった。
まず一つは、調理師免許を持っていること。
しかし、これは朱美の家ではめずらしくはない。死んだ母親が葛城家の料理人をしていた影響か、四兄弟うち三人が調理師免許を持っている。
二つ目の理由は、朱美が失業中だったこと。
なかなか終わらない不況のせいか、店長の経営手腕が悪かったのか、それとも近所に新しいレストランができたからなのか。朝出勤すると店の入口に「閉店しました」と書かれた紙が張られていた。
念のため父親に理由を聞いてみると、
『お前とは話が合いそうな気がしたからだよ』
そんな答えが返ってきた。
(…………どこがよっ!)
今思えばとんだ見込み違いである。
話しかけてくる桃子とは会話がうまくかみ合わないし、柊とは話をすることすらマレである。
父親が自分に声をかけたのは、おそらく朱美が末っ子だというのが一番の理由だろう。歳が近ければ話が合うというのは、かなり安易な発想だ。
『変わっているけれど、悪い子たちではないよ』
父親はそう言っていたが、プライベートで仲良くなれるとは思えなかった。
(特に、こういうことがあるとね)
足を止めてふり返ると、数メートル後ろで柊が立ち止まっていた。
睨むように細められた目は、真っ直ぐ前に向けられている。
「どうかしたの?」
朱美は柊の視線を追うが、これから行こうとしている道の先には特に何もない。
「いえ。何でもありません」
柊はそう言ったが、くるりと背を向けると来た道を戻り始める。
「ちょ、ちょっと。どこに行くのよ!」
聞こえているはずなのに、柊は何も言わず足を速めて角を曲がってしまう。そっちの道からも帰ることはできるが、かなりの遠回りである。
あとは店に帰るだけなので、ここで別れても問題はないが、理由もわからず別々の道で帰るというのも居心地が悪い。
「待ちなさいよ!」
朱美はあわてて柊の後を追いかける。
柊は背が高く足も長い。朱美も背は高い方だが、早足で歩かれると追いつくのが大変である。
(まったく、もう! いったい何なのよ!)
いきなり立ち止まったり、急に別の道に入ったり、柊の行動はいつも突然だ。何か理由があるのならともかく、それも教えてくれない。
(こんなんで本当に一緒に店をやっていけるのかしら?)
荷物を抱えなおしながら、朱美は大きなため息をついた。
≪ 拍手のお返事です | | HOME |